
私は学生時代、美術大学を目指して毎日デッサンに明け暮れていた。そんなある時、美術予備校の先生に言われた言葉を今でも忘れない。
「おいオマエ、感動して描いてるのか」
私はデッサンはお世辞にも上手くなかった。周りの美大志望の生徒に比べて見た目も悪いし、なんだか形が歪んでいた。だから、一生懸命デスケル(構図を測るものさしみたいなの)とか測り棒を使って、石膏のサイズを測って形を正確に描こうと必死になっていたのを覚えている。ーーけど結果は散々だった。
人は人に何かを伝えようと思った場合、その本人が楽しい、嬉しい、辛い、場合によっては怒っていると本当に心から思っていなければ、その想いというのは伝わりにくい。いや、伝わらないと思う。
デッサンしている石膏も、単に形だけみれば単なるどこか教科書でみたことのある歴史上の人物かもしれない。けど、光で白く輝く石膏のなめらかな表面や、それを取り巻く学生たちの真剣なまなざしを本当に「感じて」描くことができれば、その感動はやっぱり紙を通じて伝わる。
私はそれ以降、デッサンが好きになった。(希望の学部には入れなかったけどね)
ーー時は過ぎ、私はスタートアップの現場を取材するブロガー、そしてメディアの運営者となった。私が自ら足を運び、創業者の声、まなざし、オフィスの雰囲気をその身に感じなければ書けないというのも、こういう原体験があるからかもしれない。
でもその一方で、送られてくるメールのリリース文にすごく残念な気持ちになることがある。ーー全くといっていいほど何も感じられない、つまり「感動がない」場合が多いからだ。
いや、リリース文というのはそういうものなんだろう。事実を正確に記さなければいけないし、確かに面白そうな数字とか載ってると、あ、これバズりそうとか思わないこともない。当然プロなのでテクニックは重要だし、リリースきっかけで知り合った人も多い。
けどもう時代は違う。情報が多すぎるのだ。記事という名の下にそのテキストデータはコピペされ、いろいろなドメインのサイトで同じ情報が表示される。
ーー情報がスパムになる瞬間だ。無感動な情報は害になる。
送り方、タイミング、事前のインタビュー調整、コメント、どんな方法でもいい。リリース文+「α」で感動を伝えなければ人はやっぱり動かない。
さらに言えば、この感動が無いリリースのほとんどは創業者以外、さらに言えば、外部のPRエージェントや外注スタッフに送らせている場合が多いような気がする。
ごく初期のスタートアップにとって、PRやリリースというのは子供の成長記録のようなものだ。信頼のある記者に生の情報を「料理」してもらい、創業者の達成、感動を第三者の目を通じて伝えてもらう。
第一線で活躍している記者さんたちは間違いなく、その感動を損なうことなく伝えてくれる。腕のいい料理人は新鮮なまま魚を活け造りにしてくれる。
ネットがこれだけ進化してるんだからなんかいい方法出てきて欲しいね。
